湯どうふ

『NHK BS1「最後の講義」みうらじゅん』の感想

NHK BS1 ”「最後の講義」みうらじゅん”をみる。

糸井重里さんのツイッターからこの番組の情報が流れてきた。 どうしてもこの番組がみたかった。でも、 私の家にはテレビがない。なので、 電車に乗ってネットカフェに行った。 70分ぶんのお金を払ってみた。なので、 感覚はほとんど映画である。


最後の講義という、一連のシリーズをみるのは初めてである。 番組の趣旨は、人生の最後に語るとしたら何を語るか。 構想は1年。2018年の11月にとある大学で収録された。


聴衆は大学生から、若手の社会人が中心と見受けられる。
強く印象に残ったのは、 みうらさんが若い人に語り掛けるような口調で語っていたことである。普段のメディア(ほぼ日、日曜天国、タモリ倶楽部など) で話すときのみうらさんとはなんか違う。

注意:以下は筆者の解釈である。テレビで見た内容が筆者のフィルターを通過して、それにひっかかった言葉を再送出しているのにすぎない。


みうらさんは赤いちゃんちゃんこで登場する。 日曜天国で話していた通り、 赤い帽子をチェゲバラのごとく斜めにかぶる。


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「老いるショック」

おむつを履いて酒を飲むことに感銘を受ける話。 年をとると年取ったエピソードを語るものだが、 それは年を取ることについてポジティブな感想であるので、 年取ってるなと思ったら、「老いるショック」 と指摘してあげよう。


自分らしさなんて、ないようなものである。
自分を信じろはよくない。
「自分は、ない」⇒「空あり」と同じこと


「人は死ぬんだってよ」

人はないとこから生まれて、「ある」ものとして生きて、 死んでなくなる。もともとなかったんだから、「なくなる」 ことは別にこわいことじゃない。空から空になるんだと思うと、 気楽になる。
生きている間は「ある」ように感じるけど、自分というものは「 ない」ようなものである。  

 

アウトドア般若心経」は「自分」である。
自分は他者である。 般若心経の一文字一文字は地球中に散らばっていて、 それぞれがばらけていると般若心経としての意味をなさない。「 アウトドア般若心経」をすることで、般若心経として成立する。
「他人、環境も含めての自分」
「周りがあっての自分」である。


「自分なくし」

井上陽水さんの「夢の中へ」という歌。 何かを探そうとしているけど、結局一緒に踊る。それはその「 何か」がないから。つまり、「自分なくし」である。
その昔、「自分探し」が流行った時代があるらしい。 その時代以降の人たちは、 それをずるずると引きずっていると思う。 ビートルズのジョージハリスンがインドでシタールを習ってきた。
世界中でインドにバックパッカーして、 自分探しをするのが流行った。
自分探しは他力本願である。結局、 お金で解決しようとするものである。それより、 自分はしょうがねえなとあきらめよう。 あきらめるとは仏教の言葉である。

みうらさんは「自分なくし」という作業をした。 自分のできないことを列挙していくと、結局、なりたくないもの、 なりたくない仕事だけが残った。それが、 いわゆる今の隙間産業であった。

今のみうらじゅんは自分さがしによって見つけたものではない。


聴衆からの質問にとても真摯に答える。


「若いときは"ロック"の時代だったけど、ロックは" 自分らしさ"を強調するものなんじゃないか?」

⇒ロックとは、自分のだめさをどこまで表に出して言えるか? である。
ボブディランは自分の女々しい気持ちをロックにした。 今まであったものを否定した。
一方で、"自分が、自分が"の「ロック」もある。 そうじゃないロックがある。


自分があると面倒くさい。自分があるから他人とケンカになる。 他人があるから自分がある。


幸せに対して背を向けていたのが自分らしさ。
人は自分に対して、とてもまじめすぎる。つまり、 人は自分が大事すぎる。人は自分に対してまじめだけど、 他人に対してはまじめじゃない。
「マイナス盛蔵」になる。

 

「比較三原則」

自分について、自信はない。人は人だから他人と自分を比較する。 比較して生きているから不幸になる。
「比較三原則」と口に出す。電車の中で「比較三原則」 をつぶやいていると、比較に対して自由な人(⇒ホームレスの人) とかが、声をかけてくる。
自信満々な人は油断している。 元気がないときこそ大きな声を出す。


「みうらさんのように、ある一つのことをずっと好きでいるには? 」

⇒飽きないふりをしている。「飽きた」 と感じているかもしれないが、その先の世界がある。例えば、 100万、1000万をつぎ込んで、ある何かを買い続けると、 その先の世界がある。虚しさを超える世界がある。
「崖のぎりぎりに咲いてる花がある」
一度でも、その花をとってくるような経験をしたほうがいい。
ちなみに、崖に落ちた人は狂った人である。
崖の話をし終えた後の笑顔がとても印象的だった。
(昔、 安住アナウンサーと崖の番組をした時の話を日曜天国でしていたこ とを思い出した。グットクリフ。)


「世の中にないことをしていると、ときには批判が来るのでは?」

⇒ばかな人のふりをしている方がいい。 頭いい風にしているとたたかれるけど、 ばかな人のふりをしているとたたかれない。
それでも、ゆるキャラのはじめの方は怒られた。 怒られるということは、 まだ概念が発生していないということである。 怒られないことをしているということは、 その仕事は二番煎じである。

 

「走馬灯」

自分を盛ればいい、理想になるように盛ればいい

死ぬ前に見る、走馬灯とは人生の夢のベスト盤である。 人生を盛ればいい。走馬灯の尺は決まっている。編集するのも、 見るのも自分である。
みうらさん自身の走馬灯の映像を見せる。それをみて、最後にみうらさんが言う。
「いろんな人と関わってきたんだ」
「ひとりじゃないんだ」
「たのしかったー」


「人生暇つぶし」


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録画できないので、一発勝負だと思って、 ノートにメモを取りながらみてしまった。結果、 あまり話が頭に入らなかった。でも充実した時間だった。2/ 10の再放送をみよう。

感想

いろんなところで聞いてきた話が一つに体系化されるような感覚があった。そういえば、あのときの日天で、ほぼ日で話していたことはこうだったんだ、あれとつながるんだ、といった形で有機的な体系的な理解・解釈が私の中で構築されつつある。

昔、日曜天国で周りを「勘違いさせる」話をしていたことを思い出した。なんかすごいことをやっているなあと周りに思わせたら「しめた!」と思うそうだ。自分の評価・評論は周りが勝手に勘違いしてするものである。